2015年12月29日火曜日

言葉に敏感になる

関西の方言で「あんじょう」という言葉がある。広辞苑を見てみると、「味よく」の音便「あじよう」の転。うまく、上手に。具合よく。・・と出ている。今では使うことは無いが、子供の頃はよく使っていた。標準語ならば「宜しくお伝え下さい」というところを、大阪では「あんじょうゆうといてや」となる。京都では「あんじょういうといておくれやす」となろうか。

俳句は詩であるといつもお話ししている。上記の標準語と関西弁、どちらの方が自分の想い(詩)をより良く表現できるか。どちらの方が効果的か。俳句を詠む際には、やはりこの様な検討も必要である。そのためには、常日頃から言葉に興味を持つことだ。

私はかつて、NHKの番組「俳句王国」に出演したことが有る。公開収録が芦屋のルナホールであり、講師は稲畑汀子先生、特別ゲストは当時の桂三枝、今の文枝師匠であった。このブログの読者諸氏の中には、当日会場でご覧になった方も多いと思う。

一緒に出演するホトトギスの女性の方と、会場とは別に収録が行われる汀子先生のご自宅の庭を下見をかねて散策し、句を練っていた時のことである。ホトトギスの高名な女流の方が汀子邸の玄関から出て来られ、私達を見るなり、「何、密会?」と仰った。私達が事情を説明すると、「何だ、そうなの」と笑っておられたが、この密会という古風な言葉が妙に印象に残った。

言葉に素早く反応するためには、先述の「語感を磨く」の一文でも述べたが、言葉に興味を持つことが大切だ。テレビやラジオ、新聞など、耳や目から入って来る言葉の中から、印象に残る言葉を見つけ記録していく、これが語感を磨く上で、ひいては俳句を詠む上で大いに役立つと思う。雑詠選を拝見していると、言語感覚に欠ける句がある。日本語になっていない句も見受けられる。これではまともな句は詠めない。言葉に敏感になってほしい。

        寒禽の声の弾けて松の幹     伸一路

この句はその「密会」の際に詠んだ句であり、俳句王国の番組内でも採り上げて頂いた。

2015年12月24日木曜日

語感を磨く

先日の朝日新聞に「美しいと思う大和言葉」のランキングが載っていた。10位までは次に通りであった。

         1位  思いをはせる          6位  たたずまい
         2位  おかげさま           7位  ひたむき
         3位  ときめく             8位  おすそ分け
         4位  慈しみ             9位  心を寄せる
         5位  心尽くし           10位  つつがなく

以下、20位まで続くのであるが、どの言葉もいかにも大和言葉らしい雰囲気が有る。「おもてなし」が20位以内に入っていないのが意外だった。私は19位の「おいとまする」が好きだが、どの言葉も日本の歴史が育み磨いて来た美しい言葉である。

俳句を詠む際に、燦燦だとか滔滔だとか、漢語の形容詞を好んで使う方が有るが、漢詩を詠むならいざ知らず、俳句と言う大和歌を詠むのであるから、出来るだけ美しい大和言葉を使いたいものである。

ところで、私には言葉の成り立ちを考える妙な癖が有る。猪(いのしし)は「い+の+しし」という言葉に分解でき、「い」は野生の豚、「しし」は肉。つまり、野山を走り回り、御影や住吉あたりに下りて来て悪さをするのは「い」という動物なのだ。その肉が美味しいので、いつの間にか「いのしし」というようになり、漢字が伝来した際にこの動物を猪に当てたのだろう。

同じく山野を駆け回り、肉が美味しい「か」という動物がいる。この肉を「かのしし」という。さて、この動物は何か。答えは鹿である。では兎の肉を「うのしし」と言うか。残念ながら広辞苑にはこの言葉は無い。なぜだろう。愚考するに、猪や鹿は1頭・2頭と数えるが、兎は鳥と同じく1羽・2羽と数える。「しし」は肉、特に、食用の獣肉と、広辞苑にある。従って、鳥の仲間である兎の肉は「うのしし」とは呼ばなくなったのかも知れない。

この様な説を中国語で牽強付会、日本語では「こじつけ」という。しかし、魚を「いを」とか「うを」と呼ぶのはなぜだろう。蟹はなぜ「かに」と呼ぶのだろう。不思議でならない。私の郷里の滋賀県のある地方では、短刀の事を「さすが」と呼ぶ。子供の頃、不思議でならなかった。長じて広辞苑を調べて驚いた。刺刀と書いて「さすが」と読むとあったのだ。さすがは広辞苑、と感心したものだった。

この様に、言葉に関心を持つことによって、言葉に対する感性を高めることが出来ると思う。テレビやラジオのニュースを、言葉の持つ響きや調べに注意を払って聞くことも、語感を磨く上で効果が有ると思う。

2015年12月19日土曜日

メディアへの投句について

先日のある句会の際、新聞の俳壇への投句について質問が有った。曰く「句会で選を受けた句を、新聞の俳壇に投句しても良いかどうか。ひとたび選を受けた句は、その選者以外の選は受けてはいけない、と教えられて来たので」というものであった。私は以下の通り即答した。「少なくとも、私より上級の選者の選をお受けになるについては、私はむしろ望ましいと思う。その方の選に私が選んだ句が入るかどうか、私にとっても参考になる事でもある。機会が有ったら是非お出しなさい」と。

嘗て私の習った先輩にも否定する方があった。「選を受けた句を他の選者の俳壇に投句することは、当初の選者に対して失礼に当たる。従って他の選者に出してはいけない」と、その方には習った。選者同士の力量の比較になると考えるのだろう。今になって思うと、これは全くの的外れな見解である。

俳句の作品は、その作者の分身である。その作者が全身全霊を傾けて詠んだ作品だからである。可愛い子供の才能を可能な限り伸ばしてやろう、と思うのが親心だ。中学の担任から、大変良く出来るから是非良い高校へ、と勧められれば出来るだけの事はしてやろうと思う。高校の担任から、同じようなことを勧められれば、可能であれば良い大学へ進めるよう支援してやろうと思う。

俳句の作品も同じこと。私が特選に頂いた句を、更に上級の先生に見て頂く。そうすれば作品も喜ぶだろう。少なくとも、新聞や雑誌、テレビ等のメディアに登場される先生方は私より上級の筈である。私よりはるかに力量が優れている先生に見て頂けるとなれば、その作品は大いに喜ぶはずだ。投句に際し、いちいち私の了解など不要。どんどんお出しなさい。

但し、入選したら必ず報告して頂きたい。私も一緒に喜びたいからである。加えて、私の目もまんざら節穴では無かった、という自己満足にもなるからだ。この自己満足こそ、私の生きる糧である。読者諸氏のご健闘を期待するや切。

2015年12月16日水曜日

詩としての俳句

先日の読売新聞の「俳句あれこれ」の欄に、同紙の全国俳壇の選者である矢島渚男先生のエッセーが掲載されていた。題は「思いを籠める」というものであった。その文章を読んで大いに意を強くしたのである。一部を抜き出してみよう。

「(前略) ところで五七五と季語があれば俳句だと思っている人もおられますが、俳句も詩なのですから、そこに籠められた作者の心がなければ俳句ではありません。 (中略) 自然を詠っても人事を詠っても、おのずからその人の思いが感じられることが大切。私たちは性格も境遇も生活環境もそれぞれに違いますが、特殊性の中にある真実な心こそが普遍的な共感を呼ぶのだと思います。(後略)」

いつも申し上げている通りだが、この一文にも俳句は詩だ、と書いてある。加えて、詩の中に有る真実な心が普遍的な共感を呼ぶのだと。逆に言うと、真実の心が感じられない、単なる写生の句は詩ではなく、詩ではない五七五は俳句ではない、という事になる。

俳句は見たままを詠むものと教わり、それをひたすら守って来られた方も多い。しかし単なる写生だけの句は俳句ではないのだ。虚子もかつて客観写生という俳句理念を提唱されたが、やがて草の芽俳句と呼ばれる極端な詠み方が流行し副作用が見られるようになったので、それに代わる俳句理念である花鳥諷詠を提唱されたのである。

九年母会では、今でも写生派が主流である。しかし、徐々にではあるが客観写生から花鳥諷詠という詠み方に移行する方が増えて来ている。花鳥諷詠とは、俳句は詩であり温かい血の通った詠み方をしようという主張だと、私は解している。

私は主宰就任の挨拶の中で、花鳥諷詠の道を学び直そう、と呼び掛けた。写生派の皆さんは俳句は詩である事を理解するべきだと、痛切に思っている。

       入選といふボーナスを賜りし     伸一路

2015年12月5日土曜日

自己満足の句

先日の句会で、次の句が投じられた。

       やつと来し古城の道の落葉踏む

この句の作者は、ある城を是非訪うてみたいと長い間希望して来たが、この度ようやく念願がかなって訪問することができた。落葉を踏みながら、城の歴史に思い巡らせる作者であった。めでたしめでたし、となるかどうか。読者の中には作者に同情する方も有るだろう。行けて良かったね、と。

しかし冷静に考えてみると、この句の中に使われている季題は「落葉」であり、城の落葉を踏みながら、城に纏わる歴史に思いを致せばよいのであって、やっと来たかどうかは、読者にはどうでもよい事ではないだろうか。

この句のように、作者には大切な事であっても、作品としては必要が無い言葉がしばしば混ざることがある。別の句会で、次の句が出された。

       母と我落葉掃きつつ老ひにけり

読者としてはそうですかとしか言いようがなく、同情はするが、どうしてあげようもない句である。主観の強い句といってしまえばそれまでであるが、後味の悪さだけが残ってしまう。

この様な、自分にだけわかる句は句帳に留めておき、外部には発表しないという姿勢が大切である。句の出来・不出来は別として、少なくとも人様のお目に掛けられる句かどうか、つまり発表できる句かどうかの判断は自分でしないといけない。これは俳句作家としてのマナーであると思う。

俳句は楽しく・明るく・大らかに詠みたいものである。

2015年12月1日火曜日

寛選と厳選

九年母誌の巻頭に、五十嵐播水の著書『句作春秋』から一文を抜いて掲げられている。今月号には「寛選と厳選」と題する文章が載っている。寛選が良いか厳選が良いか、つまり、雑詠の選について、寛大な選が良いか厳しい選が良いか、という事について述べられているのである。播水選は、今では想像もできないくらい厳選であった。但し、作品について厳選であり、会員個人については思いやりのある方であった。風邪を引いたと投句用紙の通信欄に書いてあれば、即見舞いの手紙をお書きになった。しかし雑詠選については峻厳を極めたのである。

九年母の主宰を継承して8ヶ月が経過した。主宰の最大の仕事は雑詠の選だ。私なりに雑詠選の要領が掴めて来た。1月号の選では、4句の入選率が19%となった。雑詠選は結社誌の金看板であり、巻頭句を見ただけでその結社のレベルが分かる、と言われている。九年母が俳句結社として高い評価を受けるためには、先ず素晴らしい巻頭句を選ぶことだ。加えて、4句選の句の質を高めて行く事。これは主宰としての私の責任である。私にとって寛選とは、この責任を放棄することだと思う。

その意味から言っても、九年母誌は、やっとスタートラインに付けたのである。寛選に慣れた方には厳しい事になるが、会員の減少を食い止め、結社誌として生き残って行くためにはやむを得ない事であるとこを理解してほしい。舵は大きく切られたのである。

私の選は作品本意。たとえ古い方であろうと、句が良く無ければ頂かない。新しい方であっても、句が良ければ頂く。序列にも拘らない。句が良ければ、新しい方であっても前へ出す。これからは、3句入選で合格と考えて欲しい。2句入選は頑張ってほしい、という合図と受け止めて欲しい。

2015年11月27日金曜日

季題の分割

季題の分割とは聞きなれない言葉である。実は、今考えたばかりの、私の造語である。従って一般的な日本語ではない。何故こんな事を言うかというと、先日のある句会で初霜という題が出た。初霜はハツシモと4音で発音する。そうすると、初霜や、とか初霜の、とか何か助詞を付けないと、上五や下五では字足らずになってしまう。そこで悪魔の囁きが聞こえて来るのだ。曰く「初の霜」と「の」を挟んだらいいのに」と。確かに、下五を初の霜とすると、実に座りが良いのである。

そこで、私の持っている全ての歳時記に当たってみた。最大の講談社版「カラー図説日本大歳時記」を繙いても、その様な用例は見当たらなかった。やはり、初霜は初霜はハツシモとして使うべきなのだろう。

ならば初霜と初の霜とではどこが違うのだろう。私の解釈では、初霜は「初」に焦点を当てたものであり、初の霜は霜に焦点が当たっている。つまり、初の霜では今年初めて目にした驚き、感動が弱くなると思う。「の」を挟む事によって、霜の説明になってしまうのである。微妙な違いであるが、違うのだ。

秋桜とはコスモスのこと。これを秋の桜としたらどうなるか。冬の桜と言う季題も有るが、共に桜の木のことでありコスモスのことではないのである。茶の花と茶花との違いは直ぐお分かりになるだろう。色鳥は色の美しい鳥であり、色の鳥では用をなさない。逆に、秋空と秋の空は同じだ。

安易に「の」を挟むのではなく、挟む事によって季題が壊れないかどうかをしっかり見極めることが大切だ。

          初霜やマイナンバーの届きたる    伸一路

2015年11月20日金曜日

雑詠の添削

今日で12月号は校了した。校正が終了し、これから印刷・製本・発送と進んで行く。主宰を継承してまもなく8ヶ月が経過する。自宅にいる時間は昼も夜も、雑詠の選に費やしている。これだけ選に集中していると、選の基準が少しずつ掴めて来る。5月号に選の基準を列記した。この基準をどう運用するか、いろいろ迷いも有ったが、次第に要領が掴めて来た。

この基準の一つに詩情の豊かな句である事を挙げておいたが、最近になって、汀子先生が説かれる選の考え方が少し分かって来た。それは、句に真実が有るかどうか、という事である。選とは、本当の感動が有るかどうかを作者の立場になって味わってみるという事だと気がついたのである。

上手な句がある。ハッと目が覚める様な綺麗な句も有る。しかし、先生は、その句の中に本当の感動が詠まれているかどうかを探れ、と説かれる。口先だけで詠んだ句、感性の閃きだけで詠んだ句、そこには本当の感動はない。拙い表現であっても、そこに読んだ者の心に響くものがある句は本物である。この本物を見分けるのが選者の務めであると説かれるのである。

雑詠の選で残念なのが、感動を含みながら、仮名遣いが誤っていたり、文法的な間違いがあることだ。惜しい、と思うがどうにもならない。しかし、感動が十分に伝わって来る句については、可能な範囲で添削している。九年母誌が届いたら、雑詠欄の句と出句控とを照らし合わせて頂きたい。もし違っていたら、私の添削だと思ってほしい。

投句用紙の通信欄に、宜しくご指導ください、と書いてある。一人一人連絡して指導できれば良いのだが、それは不可能な事だ。私のせめてもの指導と思って、雑詠欄の句で学んで頂ければと思っている。理解できないことや疑問点については、電話やメールで連絡して頂ければお答えしたいと念願している。

繰り返しになるが、上手な句を詠もうとしないことだ。良い句とは真実が有る句であると、最近気がついた。上手な句と良い句との違い。毎日投句用紙の束を手にしながら、真実のある句を探し続けている。

        日溜に羽を休めて番鴨      伸一路

2015年11月11日水曜日

種を蒔く

姫路市の林田小学校の、俳句の授業の見学にお招き頂いた。この見学は、『姫路青門』の中嶋編集長ほか地元俳句結社の皆さん、高砂俳句協会の原会長や九年母会の野間田姫路支部長のご尽力で実現したもので、大変有意義な経験をさせて頂き、感謝に堪えない。

小学校3年生と4年生各1クラスの児童が4班に分かれ、地元の篤志家の俳人6名に引率されて約1時間ほど、校庭やその周辺を吟行。教室にもどって俳句を纏め、互選をして1〜3席の作品を決めるという授業であった。

私も、原会長が指導される第4班の児童達13名と、正門に隣接する畑に吟行に出た。地面に落ちた熟柿や青蜜柑、カリフラワーに付いている菜虫や天道虫、人参の葉についている黄揚羽の幼虫など、目に付いたものを児童たちに示し、季題であることを説明した。児童達は、懸命にノートに句を書きつけていた。どの子もスラスラと五七五に纏めるのには驚いた。

教室では、詠んできた句の中から、班の指導者が各児童につき3句づつ選をし、その句を班ごとに互選。各班で選ばれた5句を持ち寄って児童全員で互選し、上位の作品を決めるという手順であった。

感動したのは、児童たちの俳句への素直な接し方だった。有季定型以外の、一切の束縛の無い環境の中で、自由に詠んでいた。見たまま感じたままを、素直に、自分の言葉で表現していた。この体験を、3年生・4年生のこの時期に積ませる事によって、俳句の潜在能力が種痘のように植えつけられるのである。そしてその効果は、30年後、50年後に現れて来るのだろう。

私は最後の挨拶の中で、「これからも素直に見たままを詠んでほしい、そして皆さんの中から日本を代表する俳人が育ってくることを期待している」と述べた。

やがてこの子たちも受験戦争に飲み込まれ、俳句からは遠ざかるだろう。それでよいのだ。俳句という国民文化は、地下水のように、枯れることなく静かに流れ続ける。その為の種を蒔いておられる地元の篤志家の俳人の、志の高さにも感動した。


2015年11月6日金曜日

時の流れ

たまたまある外部の方から、九年母会の嘗ての会員についての調査依頼があったので、手元に有る昭和63年1月号の九年母誌を開いてみた。播水先生の雑詠選欄には懐かしいお名前が並んでいる。この号の巻頭は大内君子さんである。当時の会員は約3000名。投句者の数は知れないが、4句入選者は21名と、信じられない程の厳選である。当時は全没もかなりあった筈で、私は初投句から初入選まで半年を要した。

投句者の半数が1句入選と言われていた時代である。1500名近い方が1句なのだ。私の雑詠選の1句欄とは雲泥の差がある。当時は「万年1句」という言葉があり、一度も2句欄に昇れない方が相当有ったそうである。播水先生も、「万年1句から脱出するにはどうすれば良いか」という随筆を書かれているくらいだ。これだけの厳選でも会員が減るどころか、増え続けたのである。

雑詠欄をめくって行くと、当たり前の事であるが、鬼籍に入られた方がたくさんおられた。若い時分にお世話になった方のお名前が4句欄や3句欄の上位に並んでいる。私を九年母に誘って頂いた方や、句会でお世話になった皆さん。諸般の事情で辞められた方々。お顔が1人1人思い出され、懐かしい思いがした。

私の句は1句欄の末席に有った。

       稲稔り戦没兵士の墓並ぶ   神戸  小杉伸一路

これが私の28年前の句である。故郷の農村の墓地の風景を描いたのだが、「稲稔り」という季題が効いておらず、見ただけの単なる写生句である。戦没兵士に対して、どんな思いを表明しようとしたのか。感謝の念か鎮魂の念か。それが「稲稔る」という季題を通じて伝わって来ないのである。これだけの稲が稔ったのも、戦陣に散られた皆さんの尊い犠牲があったからです、と解すると理屈の句になる。俳句には理屈は不要である。今の私だったら上五を「秋桜」とする。

今を時めいておられる方も、この頃は1〜2句欄である。俳句修行の遥かな道のりを実感した次第である。

2015年10月28日水曜日

連用止め(重要)

他の結社の方から、九年母の句はぬるま湯のようだといわれる。どこがぬるま湯なのだろうと、長年考えて来たが、雑詠欄の選を担当するようになってから、あることに気がついた。それは連用止めの句が多いという事だ。

連用止めとは、動詞の連用形で止めることだ。動詞の活用形の一つに連用形がある。用とは用言、つまり動詞のこと。例えば、「育ち行く」という言葉の場合、「行く」という動詞に繋げるために、「育つ」を「育ち」という形にする。この形が連用形だ。

      箱苗のなすも胡瓜も良く育ち

この様に、最後を「育ち」という連用形で止めてあるので、連用止めというのである。文法的には問題はないが、語感の上で安定感がない。連用形は動詞に繋がる場合の他、「たり」という助動詞に繋がる場合がある。上記の句では、

      箱苗のなすも胡瓜も良く育ちたり

とすると、下五が安定する。しかしこれでは字余りになるので、「育ち」と切ってしまう。これで字余りは解決できるが、声に出して読んでみると、「たり」が無いので尻切れとんぼの感じがして、安定感が無くなる。

この安定感の無さが、ぬるま湯感につながっているのではないか、と思う。確かに優れた句には連用止めは無い。今月号の九年母誌に、ある方の伝統俳句協会賞入選の句が掲載されているが、30句の中に連用止めの句は全くない。もっとも、連用止めの素晴らしい句も有るが、これは推敲の末に詠まれた作品であって、無意識や習慣で詠まれたものではない。

      箱苗のなすも胡瓜も良く育つ
      箱苗のなすも胡瓜も育ちたる

とすると、しっかりした句になる。

      良く育つなすや胡瓜や箱の苗

としても良い。連用止めを避け、切字や名詞、動詞の終止形でとめるように、少し意識してみて欲しい。たちまち入選句が増えること間違いない。

     

2015年10月24日土曜日

心境の変化

有る日の句会の後、句帳を見せに来られた方が有った。曰く「こんな句、先生に見てもらうのが恥ずかしいのですが」と。恥ずかしかったら、見せなければよい。しかし、本当は見て貰いたいから持って来られるのである。

もう何年も前の事だが、六甲道勤労市民センターの初心者講座を開設して間もない頃、入門したばかりの方が「講座で先生の厳しいコメントを聴いていると快感を覚える」と言われたことが有った。私は、この人は伸びると思った。案の定、その後順調に実力を付けられ、今では汀子先生から直接教えを受けるまでになられた。

先生に句を見せるのが恥ずかしい、これを羞恥心という。この羞恥心を乗り越える、克服するという心境の変化、これが俳句入門の第一歩である。克服するのである。羞恥心を捨てるのではない。羞恥心を秘めながら、それに打ち勝つ強い気持ちを持つのである。

先日の香住吟行では、それまで私と話をしたことが無い方が、思い切って質問をされた。またある方は、全国的なコンテストに参加してみようと決意された。摩耶山俳句大会に行ってみようと決心された方も有る。皆さんそれぞれに一歩を踏み出されたのだ。これが心境の変化である。

その昔、芭蕉が「俳諧は三尺の童にさせよ」と仰ったと三冊子という書物にある。三尺の童ならば4歳くらいか。このくらいの童には未だ羞恥心が無い。まだ、風呂上りには裸で走り回っている。芭蕉は、この純真無垢な童が俳句を詠むように、自分たちも俳句を詠め、と諭されたのだ。

俳句は心境の変化を重ねるにつれて深まって来る。若い人たちは感性の赴くままに詠むが、人生経験を積み俳句の修行を重ねるに従って、句の深みが増してくる。俳句の心境を句境という。花鳥諷詠という目標の前では、すべての人は平等。ただ句境の深さが違うのみ。

耶蘇や仏陀に教えを乞う時に、恥ずかしいと思う人があっただろうか。どの人も心から、教えを聞きたいと熱望されたと思う。宗教と芸術、いずれも目指すところは心の平安ではないだろうか。そのために修行を積み、心境を深めるのだ。

2015年10月19日月曜日

地震の記憶

昨日は、淡路島の淡路市小倉に在る北淡震災記念公園を中心とした北淡地区を吟行した。地元の方も多数参加され、63名の大きな吟行となった。県立淡路島公園のハイウエイオアシスでは、素晴らしい秋晴れの下、句材に事欠くことが無く、存分に行く秋を惜しんだ。

問題は震災公園であった。公園には、阪神淡路大震災を引き起こした断層を保存・展示してある野島断層保存館や、断層の真上に有った民家を震災発生当時のままに保存してあるメモリアルハウス等の施設がある。駐車場には全国各地からの観光バスが止まり、沢山の方が熱心に震災の状況に見入っておられた。

ところがその保存館に入った途端、私はフラッシュバックに襲われた。フラッシュバックとは、過去の強烈な体験が脳裏に突然蘇ることである。私は、神戸市東灘区本山南町で地震に遭遇した。辛うじて命は助かったものの自宅マンションは全壊し、町内では60名の方が亡くなった。

当時勤務していた銀行の支店の周辺は焼け野が原。内部担当の副支店長として、水や食料の手配、マスコミの取材への対応、義援金の支払いや店舗内外の警備等、苦難の日々を経験した。交通手段が復旧するまでは、倒壊した家の屋根瓦を踏みながら、自宅から片道2時間掛けて自転車で通った。

そんな苦しい思い出が脳裏に浮かび、句を詠む事は出来なかった。否、そこに居ることすら辛かった。ましてや、地震の揺れを体験することなど、とても出来ることでは無かった。参加者の中には、同じ思いをされた方も有ったのではないかと思う。

公園内のセミナーハウスの会議室で句会が開かれた。震災に関する句が沢山投句されたが、私は殆ど採れなかった。辛くて採れないので、地震の句は避けて秋晴れの明るい句を選んで採った。平常心を保たなければ、と念じつつも目をつぶってしまう自分に負けてしまった。参加された皆さんには、申し訳ない事であった。

           刈萱の揺れて出迎へくれし旅      伸一路

2015年10月14日水曜日

踏み出す勇気

今年も但馬の桔梗の御寺遍照寺へ吟行に出かけた。参加者は神戸から5名、赤穂から4名、そして鳥取から2名の、合計11名。内訳は女性8名、男性3名。神戸の5名は殆ど毎日顔を合わせている、気心も技量も熟知している仲間。これが今回の発起人だ。そして呼び掛けた先が赤穂と鳥取。この三者の間には、名前は知っているもののほとんど面識がなかった。しかしそれでも赤穂と鳥取の皆さんは参加してみようと思い立たれた。

全く面識が無くても、お互いに九年母の会員と言うだけですぐ打ち解けられる、これが九年母会の90年の歴史が育んできた懐の深さである。九年母の会員というそれだけで、播水先生から推薦状を頂いているような親しみを覚える。不思議な感覚である。今回もそうだったのだろう。お互いに面識が無くても、主宰を中心とする同心円の仲間なのだ。初対面でも直ぐに句会ができる。しかし、結社が違うとと戸惑う。どうしてよいか分からないからだ。

それにしても良く参加されたものだ。共通している認識は主宰を知っている、という事だけ。遍照寺での吟行時間は30分のみ。片道3時間をかけての吟行では、句会と帰路の時間を勘案すればこれが限界。その短時間で俳句が出来るか出来ないか分からないが、行ってみようと決意された。これは勇気のいる決断だっただろう。それでも仲間を誘って参加され、句会では全員が入選された。この事は、きっと大きな自信になると思う。やったら出来る、と。

何事につけても、引っ込み思案の人がいる。俳句の世界では、引っ込み思案で大成した人はいない。芸術家というものは、ある程度自分を押し出していかないと世には出られない。そのためにも、先ず一歩踏み出す勇気を持つことが大切だ。帰りの電車の中では様々な質問をお聞きし、分かる範囲で丁寧にお答えした。生れてはじめて私に質問された方も有った。満足な回答であったかどうか分からないが、その勇気を称えたい。一歩を踏み出されたからだ。

                      御寺へと逸る心や秋の晴    伸一路

2015年10月11日日曜日

存問の一例

虚子はその著『虚子俳話』の中で、「お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句である」と述べておられる。広辞苑を見てみると、「(存とは見舞う意)安否を問うこと。慰問すること」とある。つまり、存問とは挨拶をすること、と考えてよいと思う。

先日NHKの番組で、「勿体ない」という言葉を採り上げていた。飽食の時代であっても、食べ物を粗末にすることは勿体ない事である。この言葉を念頭に置いて、もう一度日常の生活を見直すべきではないか、との問題提起であった。

この場合の勿体ないは、当事者と廃棄される、又は粗末にされる物との関わり方である。粗末にする人とされる物との関係である。俳句で言えば、作者と季語との関係と言える。これに対して、関西地方では、別の意味の「勿体ない」がある。

かつて札幌で勤務していた時のことである。幼稚園児であった娘が腎臓を患い入院したことが有った。家内の母が滋賀から飛行機で駆けつけてくれた。私と二人で自宅を出る際、義母の靴の向きを直して置いてあげた。それを見た義母が「ああ、勿体ないこと」と言ってくれた。この「勿体ない」と食べ物の「勿体ない」とは、全く違うものである。

ここには、義母という有難い方の靴を揃えるという私の行為と、その行為を有難いものとして受け取った義母との、心の交流がある。その心の交流を、虚子は存問という俳句理念に掲げられたのではないかと思う。この事は俳句で言えば、作者と季題との関係であり、季題を媒介とした作者と読者との心の交流、つまり存問が俳句なのである。

         食進む新米といふそれだけで     伸一路

2015年10月7日水曜日

秋の声

去る9月12・13日の両日、(公財)日本伝統俳句協会の第26回全国俳句大会が 、新潟県の越後湯沢にて開催された。   

       峰寺に別れ惜しめば秋の声    征一

金沢の今村征一様が、その大会でお詠みになった句である。吟行に出かけると、ついその土地の固有名詞を入れがちであるが、この句は峰寺とだけ詠んである。このため、全国のあらゆる峰寺を想起できる、普遍的な句となった。読者は、自分が親しくしている峰寺に身を置いて、この句を鑑賞できるのである。

この句で使われている「秋の声」という季題について、考えてみよう。具体的に挙げればどんな音があるだろうか。例えば、枯葉の葉擦れの音。残暑の頃の、木の葉もまだ活力を残している頃の葉擦れの音ではない。晩秋の風が木々を吹く音だ。

澄み切った川の水も、晩秋の音を立てて流れる。堰を落ちる水も澄んだ音を立てる。錆びた狗尾草から聞こえて来る、すがれた虫の声。枯れた菊を焼く音。越冬の準備に入った鵙の高音。芒を吹く風の音。他にも様々な秋の音が有るだろう。これらを全部纏めて、「秋の声」を滅び行く命の声と解釈出来ないだろうか。「秋の音」ではなく「秋の声」なのだ。

掲句の「別れ惜しめば」という措辞には、再び会うことが叶わないかも知れない、という思いが込められている。だから「秋の声」が聞えるのだ。「峰寺」という場所が暗示する一期一会の観念と、「秋の声」という季題とが響き合って、別れを惜しむ思いが見事に表現されている。

今月29日には神戸の摩耶山で、第24回摩耶山俳句大会が開かれる。読者諸氏も峰寺に登って、秋の声を聞かれては如何だろう。


2015年10月4日日曜日

名人と共に

毎月最も緊張する句会が終わった。汀子先生宅で開かれる下萌句会である。この句会の緊張感に比べたら、本部例会・本部吟行など物の数ではない。3日前から緊張モードに入る。物を言わなくなる、部屋に籠り切りになる等、明らかに通常と違う雰囲気になる。

汀子先生のお宅まで徒歩で20分。しかし往路は家内に車で運んでもらうかバスで向かう。午後1時に邸内に入ると、先ずお庭に回り、季節の句材が有れば句作。玄関に戻り、脇の池の金魚を眺めてから入る。金魚を見ると、何故か気持ちが落ち着く。20畳ほどの広さがある応接間に入り、先着の方々に挨拶してからいつもの席に着席、2時の締め切りまで静かに推敲する。やがて20数名の方が揃う。汀子先生が入って来られたら全員起立して挨拶する。このようにして通い詰めて、もう9年になる。

今日は4名の方が欠席されたが、いつものように格調高い句会となった。5句出句の5句選で、全句入選の方が1名、4句が1名、3名が7名、2句が7名。余は1句の方。私は3句入選で、まずまずの成績だった。汀子先生の句は3句採れ、一致率指数は68.0だった。

この句会も高齢化が着実に進んできた。最高齢は大正14年生れ。昭和1桁の方も多い。名乗に手間が掛かる様になって来た。先生も耳が少し遠くなられた。それでも素晴らしい句を拝見でき、うっとりする。
       
      水近き名残りの萩を誘ふ風     仁子

今月号の「九年母」の招待席にご出句頂いた仁子(きみこ)さんのお句である。お庭の萩をお詠みになったのであろう。嘱目即吟でここまで詠めるとは、素晴らしい事である。

汀子先生に、九年母主宰を継承して6ヶ月が過ぎたが、会員諸氏のご協力で無事運営できていることを報告し、喜んで頂いた。

      投釣の糸の伸び行く秋の空    伸一路

2015年9月30日水曜日

憩いの一時

早いもので、本日で主宰就任から6ヵ月が経過した。編集部や発行所も順調に稼働し、さしたる事故もなく運営が続いている。文學の森の「俳句界」、角川学芸出版の「俳句」、そして東京四季出版の「俳句四季」の3大総合俳句雜誌に継承に関する記事を掲載し、全国レベルで認知して頂いた。「俳句界」のグラビアの写真撮影や3時間に亘るインタビューも有った。兵庫県俳人協会の副会長に選任され、住吉大社の献詠俳句の選者に就任した。全てこの6か月間の出来事である。

九年母10月号の発送が終わり、本日午前中に月末の事務が全て終わったので、近くにあるスパに行って来た。風呂好きの私の、至福の時である。ぬるい目のお湯にゆっくり浸かりながら、6か月間の出来事を振り返り、これで良かったのか考えた。発行所の事務は順調で、会員も就任以来4名増加した。編集部の皆さんの習熟度も向上し、毎月の発行も順調だ。主宰就任に際し、雑詠選の厳選化を宣言したが、この6ヵ月間で雑詠の水準が飛躍的に向上した。これは、雑詠投句に緊張感が出て来た事によるものだろう。

6ヵ月目の本日、雑詠選の状況について浩洋先生に報告し、厳選化の推進に改めてご賛同頂いた。かつて播水先生の頃は、雑詠選で4句に入選する方は、全体の0.5%程度であった。10月号では25%程度である。『未央』の古賀しぐれ主宰にお聞きしたところ、やはりその程度だとのこと。時代の変化もあり、会員数も減少して来ているので、播水時代と同じ様には出来ないが、雑詠の価値を向上させるためには大切な事である。継承前は、4句の入選者が75%程度であり、厳選化に伴う混乱も見られるが、やがて理解が行き渡り、落ち着いてくることと思う。

途中の休憩も含めて2時間半、ジャグジーや2種類のサウナ、阿蘇の小国温泉と同じ泉質の岩風呂などのお湯を楽しんだ。明日から下半期の仕事が始まる。就任1年に向かって、新たな気持ちで取り組んで行きたい。


2015年9月29日火曜日

俳句の位置づけ

昨夜はスーパームーンの十六夜。お月見を堪能された事と思う。出ていますよ、とメールを頂いた。ベランダから眺めていると、大阪空港へ降りて行く飛行機の灯が、いかにも貧弱なものに見えた。やはり、大自然の営みは素晴らしい。

前日の十五夜は、大阪の住吉大社で鑑賞した。住吉大観月祭が18時から開催され、献詠俳句と短歌の入選者の表彰式が行われた。私も選者の一人として参列、この方があの句をお詠みになったのか、と感慨を持って表彰式を見守った。

我が九年母からも沢山の応募が有り、次の皆さんが入選された。改めてお祝い申し上げる。

      地賞      宮の月世にことのはの尽くる無し     小柴智子
      佳作      復興の祈りよ届け今日の月         安本惠洋
      佳作      今日の月宇宙に心馳せもして       宮下美智子

600句近い中から天・地・人の3賞と佳作10句、計13句が選ばれる。3句に選ばれる確率は、単純に計算すれば0.5%。しかし面白いもので、最終選考に残ったのは14句。5人の選者の誰が見ても、良い句は良いのである。献詠という事も有って、応募句のほとんどすべてが伝統的な詠み方であり、同じ土俵の上で優劣を戦える、という安心感も感じられた。

ところで、長田、生田、廣田、住吉という、大阪湾を取り巻くかつての大社・中社は、いずれも神功皇后の海外遠征に因んで創建されたものと言われているが、どのお宮の宮司も短歌を良くされる。住吉大社の献詠でも、メインはやはり短歌だ。

満月の昇った反橋(太鼓橋)の上で、冷泉流により天・地・人賞を受賞をした短歌が朗詠された。実に幽玄な世界である。佳作10句も、吟詠家の女性によって美しく朗々と詠い上げられた。

短歌に続いて、神職によって俳句が朗詠されたが、悲しいかな、短歌のように朗々とはいかない。五・七・五では、あっという間に終わってしまう。俳句らしいといえば、そうかも知れない。それにつけても、俳句の母屋としての短歌の存在を思い知らされた。選者による玉串奉奠でも、その他の事につけても、先ず短歌が優先。これが日本古来の文化かも知れない。

しかし、芸術に優劣はない。かつて桑原武夫氏が俳句を第二芸術と貶めた事が有ったが、俳句を知らない学者の論に過ぎない。俳句は、国民大衆の中に有って感動を伝えあう文芸なのである。新聞のコラムや記事の中に、軽いタッチで登場するのは、圧倒的に俳句が多い。それだけ俳句は大衆に支持され、愛されているのだ。それが俳句なのである。

         黒々と千古の樟や望の月    伸一路
         歌神に捧ぐる一句月今宵        同

2015年9月26日土曜日

神戸の芸術文化

九年母10月号の最終校正も終わり、印刷に掛かった。29日には発送作業がある。昨日は11月号の原稿校正があり、印刷所に回す前の雑詠選や同人作品、巻頭者の言葉、自句自解、私の俳歴などの原稿を通覧して、字の誤りなどを点検した。新しいスタッフの仲間も仕事に慣れ、俳句に対する素晴らしい意欲を秘めつつ、粛々と作業を進めておられ、まことに頼もしい限りである、

原稿校正が午前中で終わったので、午後は三宮の中央図書館で12月号の雑詠の選をした。5時20分に図書館を出て生田神社会館で開催された「第18回 アーテイストの集い」に参加した。この会は、神戸で活躍する様々な分野の芸術家の集いで、東京オリンピックの前年、昭和38年に「8の会」として発足した。資料を見てみると、1979年(昭和54年)の開催案内状には、五十嵐播水の他、小松左京、田辺聖子、小磯良平、奈良本辰也、佐治敬三、朝比奈隆、藤本義一など、各ジャンルを代表する先輩方が、世話人として名を連ねておられる。

今回出席した方は全部で129名。吉本副知事や久元神戸市長も来ておられた。俳句部門では、兵庫県俳句協会の五十嵐哲也顧問ご夫婦、澤井洋子会長、副会長の私の4名だけだった。圧倒的に多かったのが音楽関係と美術関係。私の居たテーブルは、俳句関係4名の他は、筝曲、洋画、建築の専門家であった。皆が「先生」で呼び合い、一種独特の雰囲気を醸し出していた。私は初参加であり、おとなしくしていたが、アルコールの作用も有って皆さん大いに盛り上がり、ステージの上では声楽家がソプラノの高い音を響かせ、イタリア歌曲の次は童謡の「赤とんぼ」と、ごった煮の様相を呈していたが、自分の信じる道にそれぞれが酔っていた。芸術家だけの集まりも良いものである。これからどんな人脈が出来て来るか、楽しみだ。

2015年9月21日月曜日

吟行の成績

昨日は、九年母会の本部吟行が奈良市であり、朝8時過ぎの阪神電車で出かけた。最近では、近鉄電車が阪神の神戸三宮駅まで乗り入れ、近鉄奈良駅まで約90分で運んでくれる。従来はJR大阪駅まで行って、大和路快速に乗り換えるか、近鉄上本町から奈良行きに乗っていたので、随分楽になった。芦屋から乗っても比較的空いており、隅の方で90分間、選をしたり原稿を書いたりできるので助かる。

到着後、私は子規の庭と元興寺を中心に吟行した。昼食の後1時30分締め切りで句会が始まった。披講を聞いていると、子規の庭の句が多かった。逆に、飛火野やその他の名勝を詠んだ句は少なかった。子規の庭が俳枕になって来ているのだろう。柿と子規とを結び付けた句や、子規の療養生活を詠んだ句も多かった。この様な詠み口も悪い事ではないが、私の選ではこの様な句はあまり頂かなかった。逆に、写生に徹しようとする姿勢の伺える句を頂く様に心掛けた。何故か。吟行は写生の修行の場であるからだ。

結果的に、私と同行された作者の句が沢山入選した。意図した訳ではない。上記の方針に沿った選の結果がこうなっただけである。なぜこうなったのか考えてみよう。子規が泊った宿が嘗てここに有った。その宿で有名な、

       柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺      子規

という句が詠まれた。そのゆかりの庭に柿の木がある。とすれば、子規と柿とを結び付けて詠む事は自然の成り行きだろう。しかし、そこに理屈が入っていないか。説明になっていないか。子規だから柿だ、これは理屈以外の何物でもない。しかもすぐにネタ元がばれる詠み方だ。

子規の庭に吟行したから子規を詠まないといけない、柿を詠まないといけない、と思うのは一種の脅迫観念である。皆が詠むから自分も詠まなければと思う、それは集団ヒステリーの様なもの。子規の庭に吟行しても、心が打ち震える感動が無ければ詠まなくていいのだ。

そんなことに拘らず、奈良の秋の風景の一部として子規の庭を捉えることが、真の吟行なのではないだろうか。庭に咲く秋の七草や、秋の色に変わりゆく若草山の姿、秋天に聳える東大寺の大仏殿など、古都奈良の秋を詠む句材は、子規の庭にも沢山有ったはずである。蟋蟀の声が面白ければそれを詠めばよい。理屈・説明・常識・知識、これらを捨て去ったところに詩が生まれ、俳句となるのだ。

      秋日和とは飛火野の空の色      伸一路

2015年9月18日金曜日

連想の文芸

俳句は十七音しかない。何百ページも費やして作者の思いを述べる小説と比べると、読者に伝えられる情報の量はごく限られている。しかしこの限られた世界でも、俳句の仕組みを最大限に活用すれば、小説より多くの情報を読者に伝えることも可能だ。それには連想の力を使う必要がある。

その俳句の仕組みの一つが、季題の活用である。季題をバネにして読者の心の中に飛び込み、連想を広げることによって、俳句は無限大の舞台を獲得できる。

     筵干し並ぶ庭先鶏頭花      茂子

先日の句会に出された句であるが、鶏頭という季題の働きが脳の記憶中枢を刺激し、農家の庭先の情景を読者の心の中に展開してくれる。農家の事であるから、庭先といっても石組や造り滝がある訳ではない。畑と庭の境目が無い、そんな庭先である。幾畝かの畑には、大根の大きな葉が並んでいる。畑の隅には真っ赤な鶏頭が数本咲いている。縁先には何枚かの筵が広げてあり、収穫した唐黍や小豆等が干してある。筵の上を赤とんぼが飛んでいる。竿に干された洗濯物が風に揺れている。卵を産んだのか、鶏舎でコ・コ・コ・コと鳴く声がする。畑の杭の先に飛んできた鵙が、キーッ・キーッと鳴きだした。畑から田圃へ続く径には曼珠沙華が咲きだした。どこにでもある農村の秋の風景だ。

優れた句は、十七音であっても、これだけの連想の広がりを演出してくれるのである。練達の方なら、私などが及びもつかない連想の世界を味わえることだろう。俳句で最も大切なことは季感である。虚子先生は「無季若しくは季感のない句は、俳句ではないのである」と、その著『虚子俳話』の中で述べておられるが、掲句には秋という季感が溢れている。

季題を活用して読者の連想を膨らませるのが俳句という文芸であり、連想の広がる世界が大きければ大きい程、優れた俳句であると思う。

2015年9月14日月曜日

住吉大社観月祭

今日9月14日は、私の生涯でも、忘れることが出来ない一日となった。大阪の住吉大社祈祷殿の神前にて、午前10時から、私の献詠俳句選者の委嘱式が催行された。巫女さんに案内されて入場し、神前に畏まって座っているのは私一人。その私の為に、神官が選者就任を報告する祝詞を奏上された。玉串奉奠の後、神人の神楽歌に合わせて、4人の巫女が神楽を舞って下さった。神楽の後、宮司から委嘱状を頂き、神事が終わった。「九年母」の2代目の選者である山本梅史以来、播水、哲也と続いてきた住吉さんの献詠俳句の選者に、私が就任した瞬間であった。

その後別室にて、他の選者の方と、事前に提出した選句の結果に基づいて、天・地・人の各賞入賞者と、佳作10句の入選者を決めた。投句された五百数十句の中から3句を選ぶのは、なかなか大変な作業であった。入選者には追って通知が出される。選者の一人で、入院されていた古賀しぐれ「未央」主宰のお元気なお姿を拝見出来たことも嬉しい事だった。

今月27日(日)の夜、観月祭が催行される。住吉さんから頂いた資料により、その様子を再現してみよう。「中秋の名月の夜、6時、第一本宮にて観月祭祭典並びに献詠歌句入選者表彰式に引き続き反橋前へ前進。反橋の真上より名月が昇る中、反橋上において冷泉流による入選和歌の朗詠と入選俳句の朗読がある。このあと住吉踊と天王寺楽所雅亮会による舞楽が奉納される。祭典終了は八時半頃。」(平成26年住吉大社観月祭献詠集より)

私は選者として、表彰式に参列する。今まで投句されたことが無い方も、満月の下で繰り広げられる絵巻をご覧になり、来年の観月会の応募句の準備をされては如何。

     歌神に捧ぐる一句月今宵    伸一路

2015年9月12日土曜日

もしての句

先日の句会で、こんな句が出された。

       触れもして脈打つ命袋角

いわゆる「もして」の句である。この言葉を下五に据えて詠んだ句が、九年母の雑詠選で散見される。私が俳句を始めた昭和59年頃、当時師事していた古澤碧水にこの「もして」を教わった。古風だが俳句らしい語感が有って、好んで使った。周りの方も普通に使っておられた。しかし、調べてみると、使用例は意外に少ない。朝日文庫の虚子著『高濱虚子句集』に収録されている約4000句の中で、私の調べた限りでは次の2句だけである。

       焚火してくれる情に当りもし       虚子
       この寒さ腹立ちもして老の春       同

東京四季出版の『歳華悠悠』には五十嵐播水の句が350句収めてあるが、その中で「もして」の句は次の1句だけである。

       秋暑し女の扇借りもして          播水

五十嵐哲也名誉主宰の近著『復興』においても、収録600句中、平成11〜13年の部に次の1句が有るのみ。

       豆飯のお代わりもして忌明けかな    哲也
 
私の第一句集『鳥語』を繙いてみても、平成15年の部に次の句があるのみである。

       野路行くや色鳥の羽拾ひもし      伸一路

恐らくこの句が私の最後の「もして」の句だと思う。

ホトトギス誌の雑詠欄や天地有情の欄を通読しても、「もして」の句はまず見当たらない。それが現在の状況である。全ての文化と同様、俳句も日々進化している。絶えず新しい句材を求め、新しい詠み方を工夫することによって、自分の俳句も進歩・発展してゆく。古い表現を使ってはいけない、ということではないが、常にフロンティアを志す気構えを持ちたいものである。

2015年9月9日水曜日

て止めの句(重要)

選句控帳にある「て止め」の句を拾ってみよう。選句控帳とは、句会や講座、雑詠選などで目にした問題の句を控えたもの。優れた句を控える方は大勢おられるだろうが、私は問題の句を控えて、教材にさせて頂いている。

     鈴蘭のハイジの国へ誘いて
     鈴蘭を取り巻く山気よく澄て
     車中まで届く薫風髪揺れて
     薫風に瞬時の気合い飛び交ひて
     濡れた葉の陰にででむし角見せて
     急坂を登る学徒ら汗かきて

これらの「て止め」の句は、短歌の上の句だと思う。難しく言うと、連句の第三の句なのである。俳句は連句の第一句(発句)が文芸として独立したもの。従って、俳句と云う前は発句と言った。今でも俳句のことをホ句と言う人があるが、これは発句が訛ったもの。俳句は発句なのだ。一方、第三の句は発句から数えて三つ目。という事は俳句(=発句)ではないのだ。

ところで、第三の句には、「に」「て」「にて」「らん」「もなし」のいずれかで止めるという決まりがある。この事からしても、「て」は非常に危険な止め方だという事が理解できるだろう。

連句では、発句には季題と切れを入れるという決まりがある。続く七・七は脇句といって発句に対する挨拶を詠む事になっている。これに続く第三の句は季題や切れの約束が無いので、続く第四の七・七と合わせると、短歌の形となる。

    (第三) 鈴蘭を取り巻く山気よく澄て (第四)ただありあけの月ぞ残れる

これらの事からして、第三の句は俳句ではなく、短歌の上の句だということが分かると思う。残念ながら、掲題の句は、すべて俳句ではない。これに対して、て止めで有っても、季題と切れとが入ると俳句になる。

    鈴蘭を愛づや少女の瞳もて     伸一路

下五の最後が「て」で止まる句が出来た場合は、「それにつけても秋は悲しき」と続けてみる。第三の句は、これが繋がる。この違いを掴めるかどうかが、上達への試金石になる。次回は、「て止め」の句が出来た時にどうするか、を考えてみよう。     

   

2015年9月7日月曜日

片仮名表示

先日の句会で、次の句が投句された。

      ザリガニの逃げなむとせし溝浚へ

ホトトギス新歳時記には無い季題だが、角川合本歳時記には蟹の傍題に「ざりがに」がある。片仮名表記ではなく平仮名になっているところに注意してほしい。伝統俳句では、物の名前を片仮名で書くのは外来語だけとされているのだ。

     すくすくと育てよわが子チューリップ
     アイリスのシルクロードの夢運び
     鈴蘭やシスターの売るバター飴

いずれの句も、外来語は片仮名で表記されている。ザリガニは蟹(正しくは海老)の一種で、後にしざる蟹という意味から、しざりがに、ざりがに、と変化したらしい。従って掲句は、

     ざりがにの逃げなむとせし溝浚へ

とするのが正しい。図鑑や広辞苑ではザリガニとなっており、日常生活でもザリガニであるが、伝統俳句では「ざりがに」と書かなくてはいけないのだ。こんな句も有った。

     光りつつ人造クラゲ浮遊中

クラゲが片仮名表記になっているが、正しくは「水母」「海月」又は「くらげ」と書くべきもの。理由は上述の通りである。その他にも、蛍をホタル、鶯をウグイスと表記した句は、日常的に散見する。

     梅の木にウグイスが来てホーホケキョ

という恐るべき句も有った。鳥類の勉強ならばこれで良いのだが、俳句の世界では通用しない。気を付けて欲しい。

2015年9月5日土曜日

説明の「に」

「に」という助詞は大変使いにくい。

   古池や蛙飛び込む水の音      芭蕉

日本人ならだれでも知っている、俳句の代名詞のような句である。芭蕉の俳句の原点とも言われるこの句、上五の「や」という切字を「に」変えたらどうなるだろう。

   古池に蛙飛び込む水の音

余りにもつまらない、説明の句になってしまう。別に、古来誤って語られてきた句がある。

   朝顔に釣瓶とられて貰ひ水    

この句は、正しくは

   朝顔や釣瓶とられて貰ひ水     千代女

である。このことは千代女自筆の短冊によって確認できる。またこの句碑もある。何故、誤って後世に伝えられたのだろうか。要するに、この誤用の方が分かりやすいからだろう。朝顔の蔓が釣瓶に巻き付いて使えない。蔓を切ればいいにだが、それも味気ない。仕方なく、隣家へ事情を説明して水を分けて貰った。こう解釈した方が風雅で、いかにも俳句らしい。このような理屈から、作者本人の意図とは違う解釈がなされるようになった、と私は考える。

作者の意図通り解釈するには、「朝顔や」と「や」で切る必要がある。そして、夜の間に釣瓶を賊に盗まれたので、貰い水をした、こう解釈するのが正しい。しかしこれでは風雅でも何でもない句になる。朝顔という季題の働きもない。釣瓶を盗られた無念さを、朝顔にぶつけているだけの句とも解釈できる。このため、誰云うとなく、ごく自然に「朝顔に」という誤用の方が支持されるようになったのだろう。

「に」という助詞の使い方は、この様に難しい。回を改めて、「に」についてもう少し述べてみたい。

2015年9月4日金曜日

新築移転

従来は「野鳥俳句教室」という名前でブログを運営して来ましたが、九年母の主宰という立場でいつまで野鳥という名に拘るのか、というご意見を各方面から頂きました。確かにご指摘の通りだと思います。つきましては、別途「九年母主宰の俳句つれづれ」というブログを新設し、俳句の随想を移転することにしました。当面は二つのブログを運営しつつ、九年母の顔として、このブログを育てて行きたいと思っていますので、従来通りご支援下さいますよう、お願いします。