「に」という助詞は大変使いにくい。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
日本人ならだれでも知っている、俳句の代名詞のような句である。芭蕉の俳句の原点とも言われるこの句、上五の「や」という切字を「に」変えたらどうなるだろう。
古池に蛙飛び込む水の音
余りにもつまらない、説明の句になってしまう。別に、古来誤って語られてきた句がある。
朝顔に釣瓶とられて貰ひ水
この句は、正しくは
朝顔や釣瓶とられて貰ひ水 千代女
である。このことは千代女自筆の短冊によって確認できる。またこの句碑もある。何故、誤って後世に伝えられたのだろうか。要するに、この誤用の方が分かりやすいからだろう。朝顔の蔓が釣瓶に巻き付いて使えない。蔓を切ればいいにだが、それも味気ない。仕方なく、隣家へ事情を説明して水を分けて貰った。こう解釈した方が風雅で、いかにも俳句らしい。このような理屈から、作者本人の意図とは違う解釈がなされるようになった、と私は考える。
作者の意図通り解釈するには、「朝顔や」と「や」で切る必要がある。そして、夜の間に釣瓶を賊に盗まれたので、貰い水をした、こう解釈するのが正しい。しかしこれでは風雅でも何でもない句になる。朝顔という季題の働きもない。釣瓶を盗られた無念さを、朝顔にぶつけているだけの句とも解釈できる。このため、誰云うとなく、ごく自然に「朝顔に」という誤用の方が支持されるようになったのだろう。
「に」という助詞の使い方は、この様に難しい。回を改めて、「に」についてもう少し述べてみたい。