2015年11月20日金曜日

雑詠の添削

今日で12月号は校了した。校正が終了し、これから印刷・製本・発送と進んで行く。主宰を継承してまもなく8ヶ月が経過する。自宅にいる時間は昼も夜も、雑詠の選に費やしている。これだけ選に集中していると、選の基準が少しずつ掴めて来る。5月号に選の基準を列記した。この基準をどう運用するか、いろいろ迷いも有ったが、次第に要領が掴めて来た。

この基準の一つに詩情の豊かな句である事を挙げておいたが、最近になって、汀子先生が説かれる選の考え方が少し分かって来た。それは、句に真実が有るかどうか、という事である。選とは、本当の感動が有るかどうかを作者の立場になって味わってみるという事だと気がついたのである。

上手な句がある。ハッと目が覚める様な綺麗な句も有る。しかし、先生は、その句の中に本当の感動が詠まれているかどうかを探れ、と説かれる。口先だけで詠んだ句、感性の閃きだけで詠んだ句、そこには本当の感動はない。拙い表現であっても、そこに読んだ者の心に響くものがある句は本物である。この本物を見分けるのが選者の務めであると説かれるのである。

雑詠の選で残念なのが、感動を含みながら、仮名遣いが誤っていたり、文法的な間違いがあることだ。惜しい、と思うがどうにもならない。しかし、感動が十分に伝わって来る句については、可能な範囲で添削している。九年母誌が届いたら、雑詠欄の句と出句控とを照らし合わせて頂きたい。もし違っていたら、私の添削だと思ってほしい。

投句用紙の通信欄に、宜しくご指導ください、と書いてある。一人一人連絡して指導できれば良いのだが、それは不可能な事だ。私のせめてもの指導と思って、雑詠欄の句で学んで頂ければと思っている。理解できないことや疑問点については、電話やメールで連絡して頂ければお答えしたいと念願している。

繰り返しになるが、上手な句を詠もうとしないことだ。良い句とは真実が有る句であると、最近気がついた。上手な句と良い句との違い。毎日投句用紙の束を手にしながら、真実のある句を探し続けている。

        日溜に羽を休めて番鴨      伸一路