2015年12月19日土曜日

メディアへの投句について

先日のある句会の際、新聞の俳壇への投句について質問が有った。曰く「句会で選を受けた句を、新聞の俳壇に投句しても良いかどうか。ひとたび選を受けた句は、その選者以外の選は受けてはいけない、と教えられて来たので」というものであった。私は以下の通り即答した。「少なくとも、私より上級の選者の選をお受けになるについては、私はむしろ望ましいと思う。その方の選に私が選んだ句が入るかどうか、私にとっても参考になる事でもある。機会が有ったら是非お出しなさい」と。

嘗て私の習った先輩にも否定する方があった。「選を受けた句を他の選者の俳壇に投句することは、当初の選者に対して失礼に当たる。従って他の選者に出してはいけない」と、その方には習った。選者同士の力量の比較になると考えるのだろう。今になって思うと、これは全くの的外れな見解である。

俳句の作品は、その作者の分身である。その作者が全身全霊を傾けて詠んだ作品だからである。可愛い子供の才能を可能な限り伸ばしてやろう、と思うのが親心だ。中学の担任から、大変良く出来るから是非良い高校へ、と勧められれば出来るだけの事はしてやろうと思う。高校の担任から、同じようなことを勧められれば、可能であれば良い大学へ進めるよう支援してやろうと思う。

俳句の作品も同じこと。私が特選に頂いた句を、更に上級の先生に見て頂く。そうすれば作品も喜ぶだろう。少なくとも、新聞や雑誌、テレビ等のメディアに登場される先生方は私より上級の筈である。私よりはるかに力量が優れている先生に見て頂けるとなれば、その作品は大いに喜ぶはずだ。投句に際し、いちいち私の了解など不要。どんどんお出しなさい。

但し、入選したら必ず報告して頂きたい。私も一緒に喜びたいからである。加えて、私の目もまんざら節穴では無かった、という自己満足にもなるからだ。この自己満足こそ、私の生きる糧である。読者諸氏のご健闘を期待するや切。

2015年12月16日水曜日

詩としての俳句

先日の読売新聞の「俳句あれこれ」の欄に、同紙の全国俳壇の選者である矢島渚男先生のエッセーが掲載されていた。題は「思いを籠める」というものであった。その文章を読んで大いに意を強くしたのである。一部を抜き出してみよう。

「(前略) ところで五七五と季語があれば俳句だと思っている人もおられますが、俳句も詩なのですから、そこに籠められた作者の心がなければ俳句ではありません。 (中略) 自然を詠っても人事を詠っても、おのずからその人の思いが感じられることが大切。私たちは性格も境遇も生活環境もそれぞれに違いますが、特殊性の中にある真実な心こそが普遍的な共感を呼ぶのだと思います。(後略)」

いつも申し上げている通りだが、この一文にも俳句は詩だ、と書いてある。加えて、詩の中に有る真実な心が普遍的な共感を呼ぶのだと。逆に言うと、真実の心が感じられない、単なる写生の句は詩ではなく、詩ではない五七五は俳句ではない、という事になる。

俳句は見たままを詠むものと教わり、それをひたすら守って来られた方も多い。しかし単なる写生だけの句は俳句ではないのだ。虚子もかつて客観写生という俳句理念を提唱されたが、やがて草の芽俳句と呼ばれる極端な詠み方が流行し副作用が見られるようになったので、それに代わる俳句理念である花鳥諷詠を提唱されたのである。

九年母会では、今でも写生派が主流である。しかし、徐々にではあるが客観写生から花鳥諷詠という詠み方に移行する方が増えて来ている。花鳥諷詠とは、俳句は詩であり温かい血の通った詠み方をしようという主張だと、私は解している。

私は主宰就任の挨拶の中で、花鳥諷詠の道を学び直そう、と呼び掛けた。写生派の皆さんは俳句は詩である事を理解するべきだと、痛切に思っている。

       入選といふボーナスを賜りし     伸一路