2016年1月4日月曜日

仕事始に当たって

今日正月4日は仕事初め。年末遅くまで仕事をされた一部の個人商店を除き、銀行も病院も株式市場も、日本中の仕事が今日から始まった。発行所の仕事も今日が初日。年賀状に混じって配達された会費の振込み連絡票の数はおよそ30枚。今日から記帳が始まる。雑詠の選も今日から始まった。昨日までの正月気分を一掃し、今日からは厳しい選が始まった。

嘗ての雑詠欄では常に4句抜けていたのに、私の担当になってからは2句になった。主宰は私を嫌っておられるのでは、と思って居られる方が有ると聞いた。これは大きな誤解である。ホトトギスの選者方は、作者の名前から選に入って行かれる方が多いようだ。九年母もかつてはそのような傾向があった。営業的な観点からすれば、沢山の方に喜んで頂いて、大いに繁昌する方が良い事は論を待たない。また、親睦を図ることが目的であれば、出来るだけ落ち零れる人が少ない方が良い。

しかし、それで良いのだろうか。私は詩情豊かな句を尊ぶ。このために、私の選は作品から入る。作品本意に選をする。この方の句だから採るという事は決してしない。従って、入選句が少ないからといって、その作者に個人的な恨みがあるのではなく、増してや、嫌っている訳ではない。誤解の無い様にお願いしたい。

私の選では、俳歴の長さは考慮しない。作品が優れたものであれば、俳歴の長短にかかわらず高く評価する。高名の方の句であっても、詩情の乏しいものは頂かない。そんな事に遠慮していては正しい選は出来ない。敬意を表する事と、選を甘くすることは別だ。選を甘くすることは、逆に作者に失礼に当たるのである。刀剣の鑑定家が、所持人の求めに応じて出鱈目な鑑定書を交付したとする。結果としてその所持人が恥ずかしい思いをすることになる。これと同じだ。

毎月1回の下萌句会において、汀子先生の選と私の選との一致状況をチェックしている。現状七割程度の一致率であるが、これが極端に低下するようだと、選そのものを遠慮しなければ、と思っている。素晴らしい句にお墨付きを与え、天下に送りだすのが私の務めだ。播水先生の選に一歩でも近づけるように、心を澄ませて作品に向かい合う日がまた始まった。