2016年2月13日土曜日

華やぐという表現

雑詠投句に次の句があった。

     買初のデパート華やぎ人あふれ

句意は明瞭であるが、内容が主観的だ。それは、デパートが華やいでいる、という表現に現れている。デパートの売り場に大勢の人が集まっているという表現は事実を写生しただけのことだが、華やぐという表現は主観的なもの。華やいでいるかどうかは、個人的な感想なのだ。掲題の句は、その個人的な感想(=主観)を読者に押し付けようとしているのである。主観を押し付けられると、読者は反発する。「貴方はそう思うかもしれないが、デパートの買初めくらいでは、そんなに人は来ないよ、何言ってんのよ、嘘ばっかり」と。そうなると、句の鑑賞どころの話ではなくなる。

俳句は、作者と読者との心の交流によって成り立つ文芸だ。作者の感動に読者が共感してくれて初めて俳句となるのである。一方的な感動の押し付けは、我儘・自分勝手であり、読者は共感してくれない。自分の句を鑑賞(=選)してもらおうと思ったら、個人的な感想を述べず有りのままの情景を描くことが大切だ。自分の思いを主張するのではなく、情景に託して思いを伝えることである。例えば、次のように詠んでみる。

     初買のデパートといふ人出かな

最近この、華やぐという表現がやたら目に付く。誰かが流行らせているのかも知れないが、こんな風潮に流されてはいけない。俳句の鉄則である、しっかりした写生と季題の活用とを忘れてはならない。

2016年2月7日日曜日

福袋は季題か

先日、九年母の雑詠の選していて、ふと次の句に目が止まった。

      福袋中身交換し合ふ子等

そう言えば最近、福袋を季題として使った句をよく見かける。確かに、現代俳句協会編の歳時記「現代俳句歳時記」には、「初市」の傍題として、初売り・初荷・初商い・初糶り、そして今回のテーマである福袋が載っている。しかし、ホトトギス新歳時記にも角川合本歳時記にも、あの何でも載っているカラー図説日本大歳時記にも無い。

どうしたものかと思案していたら、テレビから「春節祭向けの福袋を沢山ご用意してお持ちしています」というコマーシャルが流れて来た。テレビショッピングでは福袋の宣伝が、季節を問わず流れている。これでは季題としては無理だ、と判断した。

季題として立てられていない季語を使う事は、必ずしも間違いではない。先日の九年母新年俳句大会でも、当日が阪神淡路大震災の21回目の記念日とあって、阪神忌という言葉を季の言葉として使った句が散見された。私は選に頂かなかったが、この言葉はこれから季題となる可能性を多分に含んでいると思う。しかし、福袋にそれだけの季節感が有るだろうか。

福袋は、箸紙や年玉、戎笹や吉兆のような、明らかに季節性の強い言葉とは違うと思う。商店が、商品の販売促進の一環として売り出すものであり、そこに季節感は無い。色々な線香を入れた、お盆の福袋だって有り得るのだ。句に季節感がなければ俳句ではない。句であっても俳句とは言わない。敢えて言うならば、短歌の上の句であろうか。