2016年3月5日土曜日

耕耘機は季題か

先日の句会で次の句が出された。

        耕耘機操り娘深田打つ

この句の季題は「田打」(たうち)であり、ホトトギス新歳時記では、「春の田を鋤き返し、打ちくだいてほぐすことである」とある。これに対して「耕」(たがやし)と言う季題は、田だけではなく畑も含めて土をほぐして耕作の準備をすることを言う。

掲句について、耕耘機は季題かどうかという質問があった。「耕」の傍題に、耕牛・耕馬・耕人等がある。耕人は別として、耕牛・耕馬は今では絶滅種。日本中探し回っても、農耕に牛や馬を使っているところは無く、代わって耕耘機が活躍している。ならば耕耘機を、耕牛・耕馬に代わって季題として使ってよいかどうか、これが質問の趣旨である。

俳句で最も大切なこと、それは季感つまり季節感である。虚子も「季感の無い句、若しくは無季の句は俳句では無いのである」とその著書『虚子俳話』の中で述べておられる。耕牛・耕馬には、雪を頂いた嶺々をバックに、農夫と共に畑を耕しているイメージがある。未だ寒い風の中で苦労している姿に打たれ、そこに季節感が感じられるのである。農の暦の第一頁の感じがするからである。

これに対して耕耘機に季節感が感じられるか。耕耘機の大型なものにトラクターが有る。。秋の稲刈りの時期にはコンバインという、稲刈りから脱穀、袋詰めまで一気にやってしまう機械が登場する。これらの農業機械に季節感が有るかどうか。

機械で動くものには哀れさを感じることが無い。たとえガソリンが切れて動かなくなっても、哀れを感じる事は無い。しかし、春とは言え未だ寒い中での農家や牛馬のご苦労には、季節感を感じる。季題として扱えるどうかはこの様に、季節感が有るかどうかで考えればよいと思う。従って、耕耘機は季題では無い、と私は思う。



2016年2月29日月曜日

紅梅と白梅

梅には紅梅と白梅とが有る。それぞれ種類が違うので、紅白別の花が咲く。紅梅には紅梅の、白梅には白梅の、それぞれ違った趣がある。

     紅梅は日に白梅は月にこそ     伸一路

この句は、紅梅・白梅それぞれの趣の違いが詠めたと思っている。言葉に関する感覚に個人差があるかも知れないが、紅梅はやや温かみのある、ベクトルで言うとプラスベクトルではないかと思う。これに対して白梅は、ややマイナスベクトルのような感じがする。

先日の句会の互選で、成績の良い梅の句が二つあった。

     人住まぬ家の紅梅香を拾ふ
 
人が住まない家というのは楽しいものか淋しいものか。私の感覚では淋しいものである。であれば、この句の場合の梅の花は、白梅とした方が淋しさが表現出来るのではないだろうか。もう一つの句は、
      
     白梅のほころび初めて娘は嫁に

私が娘を嫁に出すのであれば、紅梅が咲いていてほしい。その方が明るくて温かい感じがする。花嫁衣裳は白無垢とされているが、せめて紅梅にして、温かく送りだしてやりたい、と思う。

紅梅が咲いていたからとか、白梅があったからとか、という理由でそのまま俳句に詠いこむことは避けるべきだ。どちらの梅が、季題としてより有効に働くかを勘案してほしい。白梅が有っても紅梅で詠めばよい。俳句は詩である。見たままでは詩ではない。

ただ最近、「思いのまま」という名前の梅を良く見かける。一本の木に紅白両方の花が咲く。季題としての使い方は難しい。思いのままには使いこなせないかも知れない。