2016年7月20日水曜日

哲也先生の教え

哲也先生の後を継いで、大阪府警本部の機関誌「なにわ」の俳壇の選を担当することになった事については、以前このブログでも報告しました。担当して第一号となる九月号の原稿を、本日府警本部宛てに送付しました。月刊発行部数が二万五百部というのも驚きまです。この機関誌に「なにわ文芸」という文芸欄が設けられ、現職警察官やOBの方、またそのご家族の方の俳句、短歌そして川柳を発表する場となっています。

その4月号の俳句の欄に、哲也先生最後の選評が掲載されています。「選後に」と題する一文を転載させて頂きます。

「俳句は季語を詠み込む十七音の短い文芸です。季題をよく勉強することが俳句上達の近道であり、本道でもあり大切です。(以下略)」

これが恐らく先生が遺された最後のお教えだと思います。先生の後を継いで選者として参加している句会が幾つかありますが、もう何年も俳句を習っているのに、未だに季語と季題の区別がつかない方が居られます。今まで先生のお教えを何と聞いて来られたのか。

虚子もその著『虚子俳話』の中で、俳句は季題を最もよく活用したものである事を要する、と述べておられます。そして「俳句には季題といふものがある。その季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる連想、それ等のものを研究し、これを(俳句を詠もうとする=著者注)その情熱の中に溶け込まして、その思想と季題とが一つになって、十七字の正しい格調を備へて詩となる。それが俳句なのである。唯の詩でない。俳句といふ詩なのである。(後略)」と説いておられるのです。

哲也先生も、上述した通り、季題を良く勉強することが、俳句の勉強の本道である、と教えておられます。先生がホトトギスの翼の下で俳句を詠み続ける、と仰ったのも同じことなのです。花鳥諷詠が先生の俳句理念であったことに、いささかの疑問もありません。季題を良く勉強せよとのご遺訓を、私達九年母会の会員は胸に刻み込まなければなりません。