2016年9月17日土曜日

季重なりについて(重要)

ある俳壇の選をしていたら、こんな句が有りました。

   ① 朝露を浴びて目覚めし蝸牛
   ② かたつむり幼き日々や走馬灯
   ③ 夕立の残せし虹に癒さるる
   ④ 夕立を知らす蛙の大合唱

作品の出来・不出来は別として、どの句も季重なりです。①の句では露と蝸牛、②の句ではかたつむりと走馬灯、③の句では夕立と虹、④の句では夕立と蛙と、どの句にも二つずつ季題が入っています。季重なりは、感動の焦点が分散するので避けた方が良い、とされます。避けた方が良いのであって、季重なりが法律に触れる訳では有りません。江戸時代の作品で人口に膾炙されている次の句は、季重なりで有名です。

     目には青葉山時鳥初鰹       素堂

①の句では、蝸牛が主で、その説明に朝露が使われています。②の句では、幼い日々の記憶が走馬灯のように過る、と詠んでいるので、走馬灯は説明の材料であり蝸牛が主です。③の句では、夕立という兼題であるのに、虹に癒されたと、虹が主としての働きをしています。④の句は蛙の大合唱を詠んだ句で、夕立は材料に使われているだけです。この様に見て来ると、季題が二つ入っているから季重なりだ、とは決めつけられないことが分かります。

先日のある句会で、私は敢えて季題が二つある句を、自信を持って巻頭に推しました。例え季重なりを指摘されても、反論する自信が有りました。ある程度修練を積んでこられると、季重なりにしないとどうしても句にならないという事を経験します。この様な場合は、季重なりと言う批判を受けても動じないだけの判断と自信を持って、季重なりにします。作品としての完成度を高めるためには、やむを得ないと判断した時に限って、敢えて季重なりにするのです。

季重なりで良く無いのは、季重なりになっていることすら気付かずに詠んでしまう事です。この場合は、指摘されて気が付きます。従って、初心の頃は季重なりを避けるように教えられます。十分に修練を積まれたら、思い切って季重なりにすることも、作品の為には必要な事です。