2018年2月3日土曜日

席題について

 私が主宰に就任してこの3月30日で3年になる。就任した当時は、選者として句会を訪問しても、後日選として句稿を送って来られても、そのほとんどが当季雑詠であった。当季雑詠方式がいつごろから九年母会に持ち込まれたのかはわからないが、播水先生が著書『句作春秋』の「兼題」という随想で、次のように述べておられる。
 「芭蕉時代に兼題というものがあったかどうか知らない。子規時代にはもっぱら題詠が行われていたようである。私が句を始めたのは大正九年であるが、その頃は兼題がありそれに席題が出るのが例であった。兼題席題を通じて十句とか七句というのでその他の句は作られなかった。つまり題以外の当季雑詠は許されなかった。こんな俳句界の中に長年育って来た私であるが、最近は兼題や席題が出ているにも拘わらずそれを作らず殆ど当季雑詠の句を出した。忙しくて兼題を考える余裕がなかったと言えば弁解になるようであるが、之が原因の一つである事は否めない。」
 播水先生らしい正直な告白であるが、九年母会の当季雑詠のルーツが分った気がする。その後数十年間、恐らく当季雑詠中心の句会が続いたのであろう。今でも本部例会では、兼題が出ているにも拘わらず、当季雑詠の句を出す人が有るが、兼題を優先させるため、私は余程の作品でなければ頂かない事にしている。兼題という同じ土俵で学ばないと、勉強にはならないからである。当季雑詠は得意な科目だけを勉強しているようなもの。理科だけが出来ても、十分な学力が付いたとは言えず、受験も出来ない。私は就任以来、各句会に兼題方式を推奨して来た。そしてかなりの句会が兼題方式になった。今後高齢化がさらに進むと、吟行が廃れて兼題方式が主流になるだろう。
 兼題に慣れた句会には、席題を一つ加える様に勧めている。訪問している先では、須磨句会、すみれ句会、五葉句会、姫路支部例会や野鳥句会等で、その効果が現れて来ており、席題で詠んだ句が巻頭を飾る様になって来た。句会場の席について、10〜20分の間に席題で詠んだ句が巻頭になる。自宅で捏ねまわして持って来た句より、席題で詠んだ句の方が高い評価を受ける。厳しい修行だが、先人たちもこれで実力を磨かれたのである。
 初心者の多い句会では無理だが、ある程度ベテランが揃っている句会では席題を出して、作句力を養う訓練をしてはどうだろう。

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